ふと思い立って、栗まんじゅうを音速で射出する装置を考案するも射出された栗まんじゅうは音速に達する前に空気の壁にぶつかり粉砕してしまうため実験は失敗。それでも諦めきれずプロジェクトXのテーマ(なんか中国語で歌ってるやつ)に乗って空気抵抗に負けない栗まんじゅうの開発に取り組んでいます。まずは素材から見直し、空気より堅い栗まんじゅうの皮を作るのです。
■私は「発表の場」としての個人サイトをこれからも運営するよ。(blog.yuco.net) http://blog.yuco.net/2008/11/personal_website/ youtubeやpixiv、myspace、もちろんmixiなんかに代表されるような「俺発信」の可能な媒体が流行ると、「発表の場としての個人サイトは絶滅する」という記事に対する反論。 まあ僕もこのサイトを10年選手でやっていて、mixiが流行ってアクセス数が激減しているけど未だに軸足はここにあるつもり。ただ僕自身が拡散型の人間なんでサイトの趣旨そのものが(ここは音楽サイトなのか、ミステリサイトなのか、ジョークサイトなのか、ゲームサイトなのか。)ぼやけてる気がするんだけどね。まあ、それは良し。 沢山の人が見てくれる所に移動するのもいいでしょう。でも「ここに行けばこの人に会える」って場所も良いモノですよ。と思います。 ただ、こういう考えを持ってしまっているのもそういう場所を手に入れる環境に居て(マサトクさん、ありがとうございます)。以前はそういう場所を使わなければ「発表の場」手に入れられなかったから。なのかもなあ。 ちょっと前にバボBさんと飲んだ時、彼が「もう、音楽とか映像とかを自分のパソコンの中じゃなくて、外のサーバに保存する時代になってきてますよ」っていう趣旨の事を言っていて。同じように、記憶というか、例えば史実や常識の様なモノも、自分で憶えるのでは無く、その時々でググッたりする人が増えて来た。ネガディブなイメージのある言葉ではあるけど、何も考えなくても生きていける環境というのは、そこに生きる人の最大公約数が目指している未来なので、割と自然な事なんだろう。ソレによって空いたリソースを別な事に使うか最少リソースで生きるかはその人の自由ですよね。にこにこ。 ネットワークが発達して、遠くの情報に一瞬で到達出来る環境において、内か外かの境界が曖昧になっているのかもしれない。「コンテンツ」の定義も広がっている。違うか、閾が下がっている。これも違う。「コンテンツ」の定義は変わらないが、より多くの人が『自分の中にあるコンテンツ』を外に置く様になったのか。人はコンテンツを自分の中では無く、外に持つ様に変わってきている。ストーリーも、日記も、思想も。もしかすると、感情も。それらが全て共有可能になったなら、個人の定義ってどうなるのだろう。 なーんてね。ギャグギャグ(栗まんじゅうを食べながら)。 (歯が折れる) ツイート Recent Entries from Same Category
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